注)この論文は1994年のものです。
第二章 『ジャンプ』650万部の歴史
第一節 マンガ出版形式の変容 ~月刊から週刊へ~
戦後の日本マンガ文化が、手塚治虫を中心として発達・浸透していったことについてはもはや疑う余地もないだろう。
手塚が編み出した映画的なコマ割り、スピード感、現実的なストーリー構成といった技法は、戦前マンガとまるで違った表現形態や情報伝達を持つものとなり、やがてストーリーマンガや劇画といった、子どもや他の読者の圧倒的な支持を受けるマンガ界の主流になるのである。
また、印刷技術の革新や、マーケットの安定に伴い、戦前とは比べ物にならない量のマンガが刊行され、日本人が本格的にマンガを手にすることのできる土壌が整ったのである。
1953(昭和28年)頃には児童雑誌の大判化に伴い、マンガの掲載量は一気に増加する。今までは児童雑誌の付録としてその内部に入り込んでいたマンガであるが、これを期にその主役に踊り出たといっていい。しかしその出版サイクルは、月刊であった。
1950年代は日本の娯楽文化の転換期でもあった。1953年にNHKがテレビ放送を開始。神武景気、岩戸景気を経て、世の中は電化ブームを迎える。
それに伴い、テレビは生活の都市化を望む時代の波に乗り、街頭テレビなどの“客寄せテレビ”から茶の間への進出を始めるのである(表8)。テレビの普及はマンガ界にも影響をもたらした。
表8 テレビの普及
昭和30年 |
36 |
37 |
38 |
39 |
|
契約数(千) |
166 |
10,222 |
13,379 |
15,663 |
16,873 |
対世帯普及率 |
0.9 |
45.8 |
64.8 |
75.9 |
81.8 |
▲大蔵省印刷局『経済白書』昭和37年度、40年度版より抽出・作成
テレビの週単位の番組サイクルが、人々の生活にも週単位の周期をもたらしたため、今までの月刊周期の発行形式では読者のニーズに応えることが難しくなってきたのである。そのため出版社は週刊単位の発行形式へシフトチェンジを余儀なくされたのである(表9)。
その先駆けとなったのが、1959(昭和34年)創刊の『マガジン』『サンデー』である。この2誌は創刊2~3年で軌道に乗り始め、描き手のマンガ家も週刊のペースで仕事をしていくようになった。
人気マンガ家のほとんどはその作品の発表舞台をこの2誌に絞り込み、週刊のスケジュールの合間に月刊誌を挟み込む形をとるようになった。
表9 月刊娯楽誌から週刊マンガ誌への転換
歴 年 |
休 刊 |
創 刊 |
1959(34) | 『新女苑』(実業之日本社) | 3月『週刊少年マガジン』(講談社) 4月『週刊少年サンデー』(小学館) |
1961(36) | 1月『野球少年』(芳文社) | |
1962(37) | 4月『講談倶楽部』(講談社) 12月『少年クラブ』(講談社) 『少女クラブ』(講談社) |
8月『週刊少年キング』(少年画報社) 12月『週刊少女フレンド』(講談社) |
1963(38) | 2月『少女』(光文社) 3月『たのしい1年生~6年生』(講談社) 3月『中学生の友一年、二年、高校進学』(小学館) 6月『少女ブック』(集英社) |
5月『週刊マーガレット』(集英社) 12月『週刊ヤングレディ』(講談社) |
1964(39) | 4月『週刊平凡パンチ』(平凡出版) 12月『別冊マーガレット』(集英社) |
|
1966(41) | 10月『週刊プレイボーイ』(集英社) | |
1967(42) | 9月『ヤングコミック』(少年画報社) | |
1968(43) | 2月『少年』(光文社) | 5月『週刊セブンティーン』(集英社) 5月『少女コミック』(小学館) 9月『週刊少年ジャンプ』(集英社) 12月『別冊セブンティーン』(集英社) |
1969(44) | 4月『少年ブック』(集英社) 11月『ぼくら』(講談社) |
8月『週刊少年チャンピオン』(秋田書店) 11月『ぼくらマガジン』(講談社) |
1970(45) | 1月『別冊少年ジャンプ』(集英社) 3月『an・an(平凡出版) |
|
1971(46) | 5月『ぼくらマガジン』を『週刊少年マガジン』 に統合(講談社) 6月『少年画報』(少年画報社) 6月『まんが王』(秋田書店) |
5月『non・no』(集英社) |
▲毎日新聞社『読書世論調査』1985年度版より
小学館の子会社であった集英社は、未だに月刊形態の『少年ブック』で苦戦を強いられていた。この当時の心境について、元『ジャンプ』編集長である西村繁男は以下のように回想している。
その当時のわたしは、娯楽雑誌部門を引き受けたはずの集英社で少年週刊誌が発行されず、学年誌を軸とした学習出版の堅いイメージの小学館から先に、なぜ『少年サンデー』が創刊されたのか納得できない思いが強かった。わたしはその思いを、『少年ブック』に移ってからも、ずうっと引きずっていた。
週刊誌スケジュールのはざまの、コマ切れの時間帯で原稿の上がりを待つ、月刊誌編集者の悔しさは想像以上のものがあった。不思議なことに、同じ週刊誌でありながらその後も『少年マガジン』に対するよりも『少年サンデー』への対抗心の方が強かった。
西村繁男「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」;P21
現在の650万部を誇る『ジャンプ』の姿はまるでない。その産声をあげるのは、週刊誌創刊ラッシュの1960年代、『マガジン』、『サンデー』に遅れること10年後の、1968年(昭和43年)であった。

描きたい!!を信じる 少年ジャンプがどうしても伝えたいマンガの描き方
週刊少年ジャンプ編集部(著)
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