週刊少年ジャンプ論 第三章 第一節

オレ流週刊少年ジャンプ論
スポンサーリンク

注)この論文は1994年のものです。

第三章 650万部を作り出す“ジャンプ方式”

第一節 新人パワーの発掘・採用

 現在は爆発的人気を誇る『ジャンプ』も、創刊時は後発誌の弱さから巨匠と呼ばれる作家に描いてもらえなかったことについては、二章で書いた通りである。

 その打開策として生じた案が、大胆な新人起用であり、苦し紛れとも取れるその策が今後の『ジャンプ』における基本編集方針の1つになるとは誰が予想したであろうか。創刊時の編集長であった長野規がその新人起用について当時言った言葉がある。

 多少の方針変更なんてものじゃない、きみたちの言っているのは180度の革命みたいなものだよ。目玉になる漫画がなくて、中堅と新人の寄せ集めで新雑誌を創刊するなんて、無謀もよいところだ。

西村繁男、「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」;P72

このように、当時としてはかなり常識はずれな策だったわけである。

 しかしそれしか打つ手がなかったため、『ジャンプ』はこの新人起用を逆手に取り、雑誌の売りにしてしまった。『男一匹ガキ大将』『ハレンチ学園』のヒットで感触をつかんだのであろう、『ジャンプ』は少年誌で初めての「新人漫画賞」を設定した。

 この試みは反響を呼び、『ジャンプ』に明るい材料を供給した。

絵はへたくそだけど新人が載る。熱気もある。ということで漫画家志望者が集まった

後藤弘喜元編集長、産経新聞1992年7月6日付け

 この「新人漫画賞」は、新人が世に出る登竜門となり、作品の持ち込みが難しい地方在住者が挑戦できる。発表号を見れば入選か選外かはっきりわかる、という利点があり、漫画家志望者・編集者双方に利益をもたらすことになった。

 「新人漫画賞」はやがて発展し、1971年(昭和46年)に『手塚賞』となり、さらにギャグ部門として『赤塚賞』が設定された(図21)。入選金額も当時としては破格の50万円であり、審査委員長の手塚治虫の原稿料より高いものであった。それだけいかに『ジャンプ』が新人発掘に気合を入れていたかが伺える。

図21 少年誌初の新人漫画賞である『手塚・赤塚賞』

▲『ジャンプ』1994年52号より

 「芥川賞」「直木賞」を意識したこの二大漫画賞は、年2回の締め切りであったので、さらに小回りの利く月例の『ヤングジャンプ賞』を設定した。これは後に『ホップ☆ステップ賞』と名称をかえ、二大漫画賞と並んで現在も開催されている。

 1989年(平成元年)にはナンセンスギャグの漫画賞である『ギャグキング』が創設され、実に4つの漫画賞が開催されていることになる。これらの漫画賞の中から現在の650万部を支える新人、井上雄彦、冨樫義博、秋本治、荒木飛呂彦などが多数輩出されている。

 賞をとったからといってすぐに連載に漕ぎつけるわけではない。有望な新人には担当編集者がマンツーマンでつき、連載の道のりまで共同作業が続く。平均して3~4年、読切などの作品を手掛け、デビューに至るわけである。

 この方式はどことなくプロ野球を思わせる。ドラフトで手に入れた新人を鍛え、使える選手(マンガ家)に育てるわけである。そして育った選手がチーム(雑誌)の屋台骨を支える戦力になる。

 逆に売れっ子作家や巨匠を集めたマンガ雑誌は、差し詰めフリーエージェントによる戦力補強をしたチームに相当するであろうか。

 かくして『ジャンプ』の新人育成システムは整った。常に新しい力を発掘するこの姿勢こそ、650万部を支える1つの大きな基盤なのである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました