70~80年代にかけて、ちびっ子視聴率100%だったのではないかと思われるのが、『世界名作劇場』です。
- フランダースの犬
- 母をたずねて三千里
- あらいぐまラスカル
といった、海外原作の小説をアニメ化したラインナップが好評で、

日曜日の19時半は、当然『世界名作劇場』!
という認識を常態化させるくらいの人気を誇っていました。

おそらく情操教育としての価値を、世のお母様方が高く評価したのでしょう、

本なんて絶対に読まないんだから、アニメで見せたれ
という感じで、安心してテレビを開放できたんでしょうね(笑)。
私もご多分に漏れず、19時からの『びっくり日本新記録』が見終わった後は、すかさずチャンネルをこちらに合わせておりました。
そしてさまざまな名作を鑑賞してきた中で、私がダントツで好きだったのが
です。
今回は幼少期の私を魅了した、この作品の思い出について書いていきたいと思います。
トム・ソーヤーの冒険とは
このアニメの原作は、アメリカの作家・マーク・トウェインの長編小説『トム・ソーヤーの冒険』です。
そのあらすじは、主人公の少年“トム”ことトマス・ソーヤーが、ミシシッピ川のほとりの自然豊かな小さな町で、“ハック”ことハックルベリー・フィンをはじめとする仲間たちとともに、さまざまな冒険を繰り広げる、というものでした。
時代は1840年あたりを舞台にしており、まだ奴隷制度と西部開拓時代の匂いが残っている、アメリカの片田舎の日常を生き生きと描いているんですね。

そして好奇心旺盛なトムは、その物語の中で
- ツリーハウスをつくる
- 深夜に蒸気船に侵入する
- 家出をして死亡説が流れる
- 気球に勝手に乗る
- 宝探しで財宝をせしめる
といったような、全国のちびっ子がやりたくてもなかなかできない憧れ行動のラインナップを、わずかひと夏の間に体験してしまうのです。
こんなん見せつけられたらね、そりゃあちびっ子は

トムってばすげぇ~っ!
となりますし、人ができないことをやってのけるその行動力に

そこにシビれる、あこがれるゥ!
となるのは、時間の問題でしょう(笑)。
その気持ちは作品中の、やはり行動力あふれる彼に魅了され、集まってくる彼の友人たちと同様であり、まるでその輪の中に自分も入り込んでいるかのような気分を味わえたんですよね。
ちびっ子を刺激する“親近感”
そしてトムのしでかすいたずらや冒険というものは、前述した通りとても身近で親近感がわくものが多かったです。
この“親近感”という演出は、このアニメの魅力を物語る上で、ひじょうに大きな要素を占めているものだと思うんですね。
というのも、80年代には多くのアニメが放映されていましたが、少年を魅了する冒険物アニメというのは、変身ヒーローやロボットと結びついた、フィクション性が高いものが多かったのです。
しかしこの『トム・ソーヤーの冒険』は、等身大の少年の、ちょっと破天荒な日常生活を冒険としていたので、“リアリティ”という点においては、他と比べて別格の説得力があるアニメだったんですよ。
それをもたらしていたのが、この作品の根底に一貫して流れるちびっ子への“親近感”だったわけです。

もちろん彼の行動は破天荒すぎて、それをそのままマネするのは難しいかもしれません。
ただ彼の行動をダウンサイジングした行動は、私たちにもがんばればできたりするのです。
- ツリーハウスをつくる➡廃材でほったて小屋をつくる
- 深夜に蒸気船に侵入する➡夜の学校に侵入してプールに飛び込む
- 家出をして死亡説が流れる➡夜に抜け出して神社で肝試しをする
- 気球に勝手に乗る➡年の離れた兄貴の単車にまたがる
- 宝探しで財宝をせしめる➡藪からエロ本を見つける
最後の例については、あまりの情けなさに自分で書いていて眩暈がしそうですが(笑)、要はこれらのちょっとした非日常的な行動のひとつひとつが、ちびっ子にとっては大きな冒険となるのです。
このように、人によってレベルは違うかもしれませんが、ちびっ子にはちびっ子なりのちょっとした冒険が必ずあったし、彼らにとってはそれらが作品内で披露される冒険と結びついていたのかもしれません。
それだけに、その冒険の最上級をやってのけるトムの物語は

そこにシビれる、あこがれるゥ!
となり、幼き私の脳裏に強烈に焼き付いているんですよね。
ハックという親友の存在
トムにはハックという無二の親友がいるのですが、彼はドランカーで虐待を繰り返す父親から逃れ、ホームレス生活を送っている少年でした。
そしてトムの一連の冒険の中では、このハックの存在が大きな役割を占めており、彼の冒険はそれこそハックとニコイチの関係性で成り立っているといっても過言ではありません。
その関係性は、見ているこちらがほんわかと心地よくなるほどの友情と深い信頼に満ちており、その凸凹コンビぶりは、まるでカスタムされた歯車のように噛み合っています。
そしてそこには境遇による差別などはまるでなく、トムはハックの人間性のみを評価して彼と行動を共にしている点が、幼な心にもとても印象的でした。
まあここで四の五の書かなくても、オープニングで描かれる彼らの“じゃれ合いぶり”を見ていれば、そんなことは一目瞭然なんですけどね(笑)。

ただこれを見て

クラスのあいつは、オレのハックかな?
なんて、クラスメートの顔を思い出していたちびっ子も多かったのではないでしょうか。
雄大な自然とロマン
この作品をとても魅力的にしている要因のひとつに、“アメリカの雄大な自然描写”があると思われます。
特にミシシッピ川はその象徴と言ってよく、この作品の舞台のスケールをより雄大にしており、無限の広さとロマンを我々に提供してくれています。
しかもその川の上を蒸気船が運航しているという光景は、国土の狭い日本ではまず見られず、

アメリカって広いんだなあ~
という現実を、物心ついてから初めて知った気がします。

その他彼らが遊ぶ草原や沼、最後の冒険の舞台となる洞窟などの大きさは、自分の住んている町と比べると規格外であり、その広さに驚きと憧れを同時に感じたものです。
リアリティある悪役の存在
最後に、この作品を一番印象深くしたのが“インジャン・ジョー”という悪役の存在です。

この作品のクライマックスは、殺人を犯して逃亡したこのインジャン・ジョーと、偶然にも彼の罪を目撃し、法廷で“彼が犯人である”と告発したトムが、マクドウガルの洞窟で出会ってしまうシーンだと思います。
トムはインジャンが告発されたことを逆恨みし、自分を見つけ次第殺すだろうと怯えており、それを見ていた我々も、同様に感じていました。
それだけに、会ってはいけない相手と、洞窟という逃げ場がない場所でニアミスするというドラマは、本当に見ていてドキドキしました。


ですので、私にとっての『トム・ソーヤーの冒険』という作品の記憶のサムネイルは、ずっとこの“洞窟内でインジャンに怯えるトムの図”だったのです。それくらい彼の悪役としてのインパクトは大きかったです(笑)。
なぜ彼がこんなにも幼少期の私に衝撃を与え、印象づけたのか。あらためて考察してみると、おそらく彼が
だったからではないか、と思います。
幼少期に観るアニメにおける悪役というのは、基本的に悪の秘密基地やアジトが存在し、そこを拠点にして一般庶民やヒーローに攻撃を加えるという図式がほとんどでした。
しかしインジャン・ジョーは“ならず者”というレッテルを貼られ、街人からは敬遠されているものの、作品の初期から普通に作品の舞台を闊歩していたし、街の人間やトムともコミュニケーションをとっていました。
つまり彼には特別なアジトがあるわけではなく、他の登場人物と同じ空間で、普通に日常生活を送っているのです。
これがちびっ子だった頃の私にとっては違和感が相当にあったのでしょうね。他の作品にはある、

ここからが悪者のエリアね
という色分けが、この作品では存在しなかったんですよ。
そして日常に紛れているその悪役は、徐々にその悪事の幅を広げ、最終的には人殺しにまでエスカレートしてしまうわけです。
この“日常生活に潜む凶行”という表現は、幼な心にもとてもリアリティがあると感じたし、今までにない異質な怖さを私に感じさせたのだと思われます。

そしてそれはアニメに登場する悪役の中では“異質”ながらも、現実世界では一番“ありがち”な、人間の持つ狂気の部分を描写した怖さでした。
そのことをこの作品で初めて知ったからこそ、その画像がサムネイル化するほどのインパクト(笑)を私に与えたのだと思います。
おわりに
以上、私の幼少期の一押しアニメ『トム・ソーヤーの冒険』についての思い出でした。これを読んでこの作品に興味が出た方は、第一話をYouTubeで無料で観ることができるので、ぜひご覧になってみてください。
私は全話無料サービス時に、夏休みを利用して一気に鑑賞したのですが、ノスタルジックな気持ちでとても楽しめたし、やはり物語として高度に完成された面白さをもった作品だと、40年を経た今でも思います。
また、うろ覚えで記憶していたことが鮮明になることで、この作品の持つ新たな魅力や、当時は気づかなかった様々なテーマを再確認させられました。
そして結論的には、

ちびっ子全員に観てもらいたい、いや観せるべき作品である!
という持論に達したわけです(笑)。
というわけで、次回はその持論に至る理由を解説していきます。ご興味ある方は、下のリンクをクリックお願いします。ではまた。


コメント