出会いから40年を経た今でも、私・アキラのイチ推しキャラに君臨し続けるロボ超人! なぜ彼は私をトリコにし続けるのかを考察するシリーズの最終回は、“ウォーズマンとは何者なのか”という壮大なテーマに挑みます!

| 出身 | ソビエト連邦 |
| 超人強度 |
100万パワー |
| 必殺技 |
スクリュードライバー |
| 主な戦績 |
ティーパックマン○ |
ウォーズマン批評最終回:ウォーズマンとは何者なのか―彼の根幹パーソナリティを考察
数十年もの間、彼が私を魅了し続ける要因とは一体何なのか。それを紐解いていくシリーズもとうとう最終回。
これまでのバックナンバーは以下の通りです。
- ウォーズマン1-私が彼にホレるまで
- ウォーズマン2-その造形美考
- ウォーズマン3-その戦闘特性(前編)
- ウォーズマン4-その戦闘特性(後編)
- ウォーズマン5-不遇すぎる扱いと悲哀
- ウォーズマン6-ビビンバとの浮気問題
前回のその6では、彼とビビンバとの怪しい男女関係に注目。超人界の文春砲スキャンダルともいわれる“ビビンバ問題”について深掘りするとともに、そこに“人間愛の需給均衡”という側面を見出しました。
この最終回では、前回の“ビビンバ問題”を経て浮き彫りとなった彼の根幹パーソナリティに迫り、
ウォーズマンとは何者なのか
を再認識することで、ウォーズマン批評Ver.2の締めくくりとさせていただきたいと思います。
意識と無意識の差―臨界を迎えた優しさというパーソナリティ
早速ですが、私なりに感じたウォーズマンの深層部分、根幹パーソナリティの正体をお伝えします。それは
優しさ
です。そうなんです。彼は優しさのかたまりで出来上がった超人なんですよ。

優しいって…他の正義超人も基本、優しいよね…?
確かにおっしゃる通りです。テリーマンは子犬のために自身の欲を捨てる自己犠牲精神があるし、ロビンもバラクーダ時代を除けば(苦笑)基本ジェントルなふるまいだし。
ただ彼らの優しさというものは、そこに“後天的”な側面が随所に感じられる優しさであるようにも思えるのです。
要は彼らが先天的に持つ“優しさ”というパーソナリティが、その後の環境やモラル教育によってより大きく育まれたという、いわば
意識的優しさ(コンシャスカインドネス)
だと思うんですね。その行動の裏側に

優しい自分でありたい
という意志が、瞬間的に行動命令を下しているというか。いわば“訓練された優しさ”にも感じるのです。
しかしウォーズマンの優しさは少し違うんですよ。彼の優しさとは、多分に“先天的”なんです。優しさを伴う行動において、後天的な経由がない。
つまり彼の優しさとは“反射的な優しさ”であり、
無意識的優しさ(アンコンシャスカインドネス)
に類するものだと私は感じているのです。

実は私はこの“無意識な優しさ”こそが彼の根幹パーソナリティであり、ウォーズマンというキャラクターをより魅力的に形成する元素だと思っているんです。
そして残虐超人時代に休眠していたその元素を顕微鏡で発見したのがビビンバであり、それを刺激して目覚めさせたのが彼女の慈母愛、つまり先述の“ビビンバ問題”だったように感じます。
それはまるで中性子に刺激された原子が核分裂の連鎖でエネルギーを生み出すかのように、慈母愛という暖かい中性子が彼の心核に触れることで、彼に優しさの連鎖…いうなれば“優しさの臨界”を誘発し、その結果恒常的な“優しさ”をもたらしたわけです。

では作中で描写された彼の優しい一面をいくつかピックアップし、それがいかに“無意識的”な優しさなのかを考察してみましょう。
優しさクロニクル―そこに見える“無意識”
母の看病
彼の優しさの原点は、幼少期における母親(ナターシャ)の看病にあると思われます。
彼は異形のロボ超人として生まれたがために、世間からひどい差別を受けてきました。しかしナターシャは彼の唯一の理解者として、限りない愛情を注いで彼を育んだのです。
そんな母親が生死の境をさまよう状態となり、彼は物心がつくかつかないかのうちから、献身的に彼女を看病することになります。
つまり彼は自我が確立する前に、本能的に優しさという元素を放出していたことになり、ゆえにその行為を優しさと認識する機会はなかったのではないでしょうか。
そしてこの環境と経験は、彼の“優しさの質”を“無意識な優しさ”へと決定づけたと思われ、その後に訪れる他者への奉仕と献身に大きくつながっていったと思われるのです。

花瓶に水を足す
このシーンはかなり素朴な描写であり、素通りしてしまう可能性が高いのですが、ひそかに私が絶賛しているシーンです。まさに

オレでなきゃ見逃しちゃうね
と、思わず天狗になってしまうほどの(笑)。
シーンとしては何のことはない、部屋にある一輪挿しの水が減っていることにウォーズマンが気づき

いけない、水が少なくなってる
と、水を足しにいくだけのシーンなんですけどね。ただこの素朴な行動ひとつで
という、彼に宿る“無意識な優しさ”を多層的に表現しており、彼の人間性を語る上での最も重要な一面だと思っています。

自己犠牲精神
彼は己を犠牲にすることで、スグルを二度救っています。
一つ目は、プラネットマンの魔技・人面疽で自身の顔がプラネットマンの心臓の上に人質として配置されたときに、

わたしの顔をぶちぬいてプラネットマンを仕留めろ
と進言し、スグルを勝利へと導いたこと。
二つ目はミキサー大帝のパワー分離機によってスグルの肉体が超人墓場へ飛ばされた際、そこからの脱出で貴重な鍵となる“生命の玉”を

オレの生命の玉をやろう。
みっつしかないが扉は半分くらいは開くだろう
と、気前よく差し出したこと。
これらの行動でいずれも共通しているのは、自己犠牲を伴う行動選択にまるで躊躇が見られない点であり、彼の“反射的優しさ”を如実に表しているといえるでしょう。

外敵救済という矛盾思考
彼は直近のペシミマン戦において、

この世は一度滅べばいい
という破滅的厭世観を持ち、未来を諦観していた彼に対して

笑える未来は…あるんだよ、ペシミマン!

その大事な思いをオレは…オレと同じくらい不器用なお前に伝えたい~~っ!
と、命のやり取りをしている真っ只中の敵を慮るという、二律背反した想いを口にしています。
そんな離れ業的言動にもまた、彼に根づいた“真なる優しさ”がそうさせていると感じられ、そこに自分よりも他人を第一に考えるという、高尚な精神性が見てとれるのです。

以上のように、わずか4つのエピソードだけでも、彼がいかに“無意識な優しさ”という個性を前面に打ち出しているかがわかるのではないでしょうか。
そしてこの根幹パーソナリティこそが、彼を彼たる魅力的なキャラクターに仕立て上げていると私は思うのです。
優しさのミスマッチ―難儀極まるキャラ
では彼のこの根幹パーソナリティというものは、格闘面において彼に利しているのでしょうか? 私は正直なところ
プラスどころか圧倒的にマイナス面が多い
と感じています。なぜならば、闘いのリザルトだけを見れば、優しさを封印した彼の方が圧倒的に勝率が高いからです。
その事実は、格闘面に限っていえば
コンピューター×優しさ
という個性の組み合わせが、最悪の“ミスマッチ”であることを証明しているに他なりません。
そりゃそうですよね。コンピューターが闘いの最適解を導き出すには、客観的で無機質なデータこそ必要であり、そこに浪花節という人間の感情、特に攻撃性にブレーキがかかる優しさという感情は、その精度を狂わせるだけのノイズデータでしかないのです。
その視点からすると、ロボ超人たるキャラのベストマッチングとは
コンピューター×冷酷さ
一択であり、それが最適配合された試合こそが、彼の計り知れない強さを描いた、超人オリンピックでのラーメンマン戦だったのかもしれません。

しかしこのファイトスタイルは
最も優しい超人が、最も冷酷で残忍なコンピューターを演じる
という、配役上における“新たなミスマッチ”が生ずるものだったのです。
これは彼にとって勝利という結果を出すために、自身のアイデンティティとの乖離を受け入れ、それに耐え忍ぶということを意味します。
このスタイルについて、彼はペシミマン戦で

誰かのオモチャでいるのは、生き方がヘタな自分にとっては楽な選択肢だった
と告白しています。しかし同時に

でもダメなんだ。これでは心から笑えないんだ
と、このミスマッチが生み出す乖離が心の澱となり、自分自身の成長における枷となっていた、とも語っているのです。
つまり“無意識な優しさ”を第一パーソナリティに持つ彼は、
それに蓋をして闘うとストレスアップ
それに蓋をせず闘うと敗北率がアップ
と、どちらに転んでも大きな問題が生じるという、難儀極まりない個性を持ってしまったともいえるのではないでしょうか。
そして彼が不遇な境遇に陥りやすいという事実に対し、

ひょっとしたらこの根本的なミスマッチが大きな要因のひとつなのではないか?
という疑念すらわいてくるのです。

ミスマッチこそが魅力?―ウォーズマンの特異性
では不遇を誘発しかねる“無意識な優しさ”という個性は、ウォーズマンの痛快な活躍を期待する我々にとっては“忌むべきピース”なのでしょうか。
様々なご意見があるとは思いますが、個人的見解としては、それは“否”です。なぜならば、彼を応援する我々は、感情にこそ魅力を見出す“人間”だからです。
仮に彼から優しさを奪い、その結果勝率が上がったとしましょう。そのとき、我々は心から彼を応援できるでしょうか?
そこで皆さんに思い出してもらいたいのが、ザ・マンリキ戦です。あの試合は一時、優しさを失ったバーサク状態の彼を描き出しました。そして実際、その時の彼はとても強かったのです。
しかし優しさや人の心を失ったそのファイトスタイルを見て、彼を心から推せた人は少なかったのではないでしょうか。見かねたスグルが体を張って彼を止めたときに、ホッと胸をなでおろした人の方が多かったのではないでしょうか。

つまりはその思いこそが、我々が持つ

ウォーズマンは優しくあってほしい
という願望の表れであったと思うのです。さらに言えば、コンピューター超人にはご法度たる
“優しさ”を配合した“ミスマッチの姿”
こそが、彼の大きな魅力であると感じた人が多かった証であり、そこに彼だけが持つ大きな特異性を感じるのです。
この感覚は、ChatGPTに代表される昨今のAIと我々の付き合い方とも近しいような気もします。
AIはコンピューターそのものです。ゆえにそのアウトプットに感情は不要なわけです。しかし我々と会話をするAIには、まるで人の心が宿っているかのような錯覚をすること、ありませんか?
それは受け手たる人間の我々が、そのようなアウトプットを心地いいと感じるからこその仕様であり、本来そんな演出は不要なはずのAIが、わざわざ我々の要望に応えてくれているからなんですね。
つまり我々は本能的にコンピューターに優しさを求めるのですよ。たとえそれがパフォーマンスを下げるミスマッチであったとしても。パフォーマンスを犠牲にしたギャップの魅力が、そこには確実に存在するんです。
しかもウォーズマンの優しさは、AIのようにプログラムされた無機的な優しさではなく、生身の感情から生じる、有機的な優しさです。
それを例えるならば、養殖のマグロ(AI)ではなく、天然の本マグロ(ウォーズマン)なんですね。養殖ですら需要が高いのに、いわんや天然をや、という話なのです(笑)。

ですので、彼のファンたる我々が、常にもどかしい思いをもって彼を応援する立場になってしまうのは、本マグロを望んだ際のトレードオフだとも思うのです。彼に優しさを求める以上、ミスマッチによる不遇は続くのです。
ミスマッチを克服?―ウォーズマンの新たな挑戦
しかし第二シーズンにおける彼は、この“優しさ”というミスマッチを抱きつつも、それを克服しようと奮闘し、対戦相手に高い評価を受けている描写が随所に見られます。二つほど例をあげましょう。
ロボ超神であるオニキスマンとの闘いにおいて、彼はオニキスマンと引き分けた後、醜い素顔が露出してダウンするオニキスマンの顔に、布を被せる行動にでます。
しかし機械たる合理性を持ち、容姿をまるで気にしないオニキスマンは、この行為を無駄であると全否定しつつも

そのヤサシサに私は最後…追いつめられたのだ
と、ウォーズマンの優しさが自分と引き分けた原動力となっていた事実については肯定をしたのです。

五大刻のペシミマンもそうです。
ウォーズマンは敵である彼をも救いたい、という優しさをもって、三段階ある火事場のクソ力の“敵のために出す力”という最高レベルのパワーを発露させ、最後の勝負に出ます。
結果的にそれは成就せず、彼は敗北を喫するのですが、その際ペシミマンは

もしオレを倒せていたならば、お前になびいたかもな
と、その優しさに傾倒しかけた心情を口にしています。

この二つの例を見れば、彼が“機械×優しさ”という両立せざるアイデンティティを両立し、己をさらなる高みに押し上げようと必死にもがいていることが、皆さんにも痛いほど伝わってくるはずです。
そしてそんな理想像に向かって、泥の中を這いつくばりながらも前進しようとする彼に尊さを感じるからこそ、ウォーズマンファンたる我々は、彼のキャラ人生に全ベットをしてしまうのではないかと、個人的には感じてしまうのです。
スグルとの類似性―憧憬のロールモデル
では彼にそんな不器用な生き方を覚悟させたのは誰なのでしょうか。それはもう…
キン肉スグル
であったと断言できます。ウォーズマンは間違いなくスグルになりたいんです。きっと彼の憧れなんです、スグルが。
私がそう考える理由は
- お互いの生い立ちが似通っている
- 第一パーソナリティがともに“無意識な優しさ”である
と、二人には類似点がとても多く、ウォーズマンは彼にシンパシーを抱きやすい状況下にあったと思うからなんですね。
では1の“生い立ちの類似点”を、いくつかあげてみましょう。
異形と醜悪
二人は容姿において、ともにコンプレックスを持っています。かたや有機物と無機物の混合した異形の存在であり、かたや不当に醜悪なデザインのマスクを被ることを強要された存在でした。
まだまだルッキズムが幅をきかせていた時代において、この外見が二人を傷つける場面は多かったと思われ、互いに劣等感を育んだことは想像に難くないと思われます。
嘲笑と爪弾き
彼らはその容姿や出自、生き方の不器用さによって、世間から嘲笑されたり嫌がらせを受けたりと、不当な差別を受けています。
これらの酷い仕打ちは彼らをコミュニティから爪弾きにし、その存在意義を否定することで、彼らの自尊心を大いに傷つけたことでしょう。
貧困と孤独
ウォーズマンは両親を早くに失ったこと、スグルは誤って地球に捨てられたことで、幼少期から一人で生きていくことを強いられました。
その環境下においては貧困と孤独がセットであり、さらにコミュニティから拒絶されていた彼らの目の前には、想像を絶する困難が立ちはだかっていたに違いないのです。

以上のように、彼らは“過酷な環境を生き抜く”という厳しい境遇を、他の誰よりも同じ価値観をもって共有することができる二人なのです。
2については、これまでのスグルの行動を見ていれば、彼の優しさが“無意識”のそれに属していることに、異論を唱える人は少ないと思われます。
ただ彼の優しさとウォーズマンのそれとのわずかな相違点は、無意識属性の中でもヒーロー作品における
英雄だけが持つ問答無用の優しさ
という点であり、スグルのそれは行動原理が弱者救済に無条件で直結しているという、理屈抜きの“無意識さ”というニュアンスが強いような気がします。
その象徴的なシーンが、連載初期にテリーマンをぶん殴ったシーンであり、ザ・マンにトドメを刺そうとした悪魔将軍を止めたシーンでしょう。
父親を助けてほしいと、なけなしの小遣いを差し出そうとした少年に対する反応、大義の裏に隠れた苦しみを察し、敵ですら手を差し伸べて救おうとする反応…そこに彼の“英雄的問答無用の優しさ”を感じるのです。

とはいえそのような優しさの近しい土台を持つ二人が、前述した厳しい環境下において
虐げられた者の痛みを知る
という、誰よりも他人を思いやる精神性を育んだことは、二人の間にかなり類似した“優しさ”を根づかせたのではないでしょうか。
ところがここでウォーズマンは、自身に向けられ続けた理不尽な差別に耐え切れず、一時優しさを捨てた復讐ファイトに手を染めることになります。
そんなタイミングで彼の前に立ち塞がったのが、差別に腐らず、弱者救済原理の優しいファイトを貫き通してきたキン肉スグルでした。
つまり類似性が高いこの二人は、皮肉にも正反対の立ち位置で闘うことになったわけですね。そしてその結果は皆さんご存じの通り、ウォーズマンの敗北だったのです。

ゆえにこの試合の過程と結果こそが、彼がスグルに憧れを抱くに至った、決定的な瞬間だったと私は考えています。
だってそうじゃないですか。自分が切り捨てたはずの“優しさ×闘い”というスタイルで、自分を上回る存在が目の前に出現したわけですから。しかもその相手の育ってきた環境は、自分のそれと酷似しているのです。
つまりスグルという存在は、ウォーズマンにとって
優しさと闘いという矛盾を両立した理想のロールモデル
そのものであり、彼が一番望んでいた生き方を実践した存在だったわけです。だからこそ、彼はスグルに憧れたのだと思うんですよね。
その証拠に、彼はオニキスマン戦終盤で、命を賭した最後の攻撃を決意した際に、スグルに対してこう言っているんです。

オレはお前と出会えて本当に良かった

命をかけて守るべきものがこの世にあると…冷え切ったオレの心に灯りをともし、温もりを教えてくれた

本当にオレは嬉しかったんだ
と。この辞世の句ともいえる彼の言葉の中に、スグルがいかに彼の憧れであったかが、にじみ出ているように感じるのです。
しかも彼はスグルとの闘いの中で、ビビンバによる“優しさ”の臨界を再び迎えていました。それゆえ彼は、前述した通り、その後の自身の生き方について
コンピューター×優しさ
という、非効率極まりないロジックをあえて選択し、それを覚悟を持って受け入れて現在に至ったのではないかとすら思えます。
さらにその選択は、近親ロールモデルたるキン肉スグルに対する、計り知れない尊敬の念がありきなのかな、とも感じるんですよね。
そして2025年現在、ウォーズマンはロビンマスクから正義超人軍のリーダーを譲られ、スグルと彼が軍団のツートップという体制となりました。
この両頭体制を“近親パーソナリティ”と“無意識な優しさ”という視点から見ると、とても馬が合うコンビに思えてなりません。
事実、ネメシス戦直前で怯えるスグルに対するウォーズマンのメンタルケアや、セコンドとしての適切なアドバイスは、その片鱗を大いに感じさせるとともに、正義超人軍の機能的な組織運営の未来を垣間見た気がしますね。

ピュアという本質―優しさの素粒子
では似通った境遇を持つ二人なのに、なぜウォーズマンだけが闇落ちしてしまったのでしょうか。
実はその答えこそが、“ウォーズマンとは何者なのか”という今回のテーマにおいて、これ以上は細分化できない彼の本質であると感じています。
つまり“優しさ”という彼の根幹パーソナリティを原子核とするならば、彼の本質とはそれを形成する素粒子です。そしてその素粒子とは…
ピュアという人間性
という結論に至りました。
そうなんです。彼という超人は、誰よりも純真無垢な存在であると、私は思うのです。
皆さん、思い出してください。これまでの彼の言動を。その中で、一度でも彼が私心を抱いたことがあったでしょうか。ないですよね? 彼には
- 承認欲求
- 自己顕示欲
- 名誉欲
- 物欲
といった世俗的欲望がまるで欠落しており、それは終始一貫しています。
その代わり、彼の行動原理には
- 身近な他人のため
- 誰かを救うため
- 何かの役に立つため
という“他者奉仕の精神”を伴うことが顕著であり、その意思決定は限りなくピュアで真っ白な人間性から下されていることがわかるのです。そしてその行動結果を、人は“優しい”と形容するのだと思います。
つまり我々が彼に傾倒する真の理由とは、彼の優しさの奥に存在する“純度高きピュアな人間性”を本能的に認識し、そこにまるで赤ん坊がそのまま成長したかのような汚れなき愛くるしさと、奇跡的な精神的清らかさに心を奪われるからなのではないでしょうか。

ただし、ピュアという人間性は真っ白であるがために、黒く染まりやすくもあります。純白の布に垂れた墨のように、それはものすごい速さで広がっていく危険性があるのです。
それを思うと、“黒き悪魔”と呼ばれた闇落ち時代の彼は、ピュアな人間性が悪い方向へ転んでしまった時代だったとはいえないでしょうか。章頭の問いに対する私の答えは、まさにこれなんです。
しかし彼の汚れた布は、スグルという理想的ロールモデルとの邂逅と、ビビンバという慈母愛の中性子により、驚きの白さに漂白されました…ごめんなさい、少しどっかのCMが混線したようです。

そして二度と布を汚さないと決意した彼は、自身に強力な撥水加工を施し、強靭な防汚機能を備えようと努力している真っ最中なのです。それこそが彼が覚悟を決めた
コンピューター×優しさ
という生き方であり、両立せざるアイデンティティを両立させようとする、不器用だけれども限りなく魅力的で尊い生き様なのだと思うのです。
おわりに
ピュアという人間性…以上が私なりの
ウォーズマンとは何者なのか
という、深淵なるテーマに対して導き出した結論でした。これを起点として彼の生き様を再確認すれば、
- ピュアという本質をもって生誕(起点素粒子)
- 幼少期の看護を通した、ピュアからなる“無意識な優しさ”の形成(根幹性質)
- 不当差別に対するピュアゆえの復讐期(優しさの封印)
- ビビンバの慈母愛による優しさの再起動(リブート)と臨界(永続)
- スグルという近親ロールモデルとの邂逅(理想と憧憬)
- 正義超人としての利他的行動(他者奉仕)
- コンピューター×優しさというミスマッチの克服(信念と挑戦)
という、何とも清らかなレールを彼が辿ってきたのか、そしてこれから辿ろうとしているのかがよくわかると思います。
その姿はまるで、過去に“冷酷・冷徹・冷血”と忌み嫌われた“黒き悪魔”の姿から、“純真・純朴・純粋”という、誰しもが望んでも到達できない“白き聖人”の姿に生まれ変わろうとしているかのようです。
しかもそんな真っ白な生き方を、ナチュラルに実践しているのが純正の超人ではなく、ロボ超人という“ダブル”である点もまた、彼の高潔さをより際立たせているのです。

つまり彼は私たちが望んでも叶わないピュアな生き方を、愚直に具現化しようとしている貴重な存在なのです。だからこそ我々は、彼に本能的に強く魅かれてしまうのではないでしょうか。
しかしながら、純粋で美しいものは同時に儚さを伴います。それを彼に降りかかる不遇とするならば、それから淡く消えやすい、彼の生き様を守らなければなりません。このような
儚くも美しい存在を守る
こと…それこそが、私が彼を心から応援したいと思う根源的な理由なのかもしれないと、彼の考察を進めることであらためて気づかされましたね。
そんな今回の考察を受けてみなさんはどうお感じになられたでしょうか。あなたのご意見や感想も、ぜひXやコメントにお寄せくださいね。
以上をもちまして、全7回に渡るウォーズマン批評の幕引きとさせていただきます。長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました。それではまたのご機会に。
※今回はサカモトさん、アツシさん、高橋さん、長野さん、戦争Loveさん、サナさん、準決勝、ネプチューンマンの末路が心配さんほか、たくさんの方からリクエストをいただきました。ありがとうございました。
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