人類を結果的に追い込む進化が嫌いです。

オレ流雑感
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 日々の技術革新はすさまじい勢いで進んでおり、すごいなぁ~と感心し、その未来性を楽しむ気持ちがある反面、あまりの進化のスピードに不安を感じてしまうときもあるんですよ。

 人間が生きていく上で、持ち前の創意工夫をもってより便利な物・合理的な方法が生み出されていくのはごく自然なことです。いまの現在があるのもその積み重ねであることは間違いありませんし、それについて異を唱えるつもりはないんです。

 ただ…もうかなり行き着くところまできた感じってしませんか? 生活の利便性はもはやこれ以上望むべくものはないように思うんです。住居、テレビ、エアコン、冷蔵庫、パソコンと、今あるレベルで十分すぎるくらい快適な生活を送っているわけです。

 しかし資本主義経済というのは停滞が許されません。さらなる新しい何か、サービスや付加価値といったものを追求・開発しつづけて利潤を得ないと、社会生活のサイクルが根本的にくずれ、成立しない仕組みになってしまっているのです。

 そのため「いるのか? こんな機能?」とか「やりすぎだろ」みたな商品やサービスが、巷にはわんさかと溢れているわけです。一番身近な例えでいえば、ケータイ電話ですね。通話はもちろんメール、写真、Web、テレビ電話、バンキング、そしてお財布ケータイですか。

 これらのサービスは本当に必要なんでしょうか。電話がもつ双方向コミュニケーションの基本的な機能というのは素晴らしいです。それだけに、「遠方の人と話せる」だけで十分に便利な機能なんですよ。

 なにもそれを財布にしたり、カメラにしたりする必要はないんです。物を買うなら財布からお金をだせばいいんですよ。写真がとりたいならカメラを持ち歩けばいいんです。それだけにツーカーの「話せりゃええやん」というコンセプトは好きなんですよ。資本主義経済において勝ち残っていくには少々厳しい企業方針だと思いますが、あえてそう踏み込んだツーカーの心意気は素晴らしいと思います。ちなみに私はauを使っていますが(ダメじゃん)。

 人間が生活するには、少しは不便なところを残したほうがいいと思うんです。でないと人間は苦労する機会を失って、どんどんダメになる気がします。また、便利になる、合理的になるということは、有効に使える時間が増えるということです。これは一見するととても素晴らしいことに思えるのですが、実はストレスを増やす原因にもなりうるわけです。

 例えばパソコンにおけるハードディスクのクリーンアップをイメージしてください。ハードディスクのクリーンアップというのは、不要なファイルを安全に削除し、空き容量を増やしてパソコンを快適にする作業です。つまり無駄を減らして有効なメモリーを増やすわけです。これによってパソコンはさらなる仕事をこなせるようになります。

 これを人間生活にあてはめてみましょう。「ハードディスクのクリーンアップ=機器の進化」、「空き容量=時間」です。この空いた時間がまるまる人間のプライベートタイムに置き換わるならば問題はないのです。

 しかし現実は「空いた時間=さらなる仕事」である場合が多いわけです。これでは人間は参ってしまいますよ。人間は機械じゃありません。便利に、合理的になっても更なる仕事を詰め込んでしまっては、ストレスが溜まるばかりです。この点において見る限り、進化することによって人間は自身の首を絞めているという、パラドックスが生じてしまうのです。

 つまりある程度の不便さというものは、一見無駄な時間にみえて、実は人間の精神や体力を回復させるインターバルの機能をもっていると見ることもできるわけです。無駄な時間は実は無駄ではなく、有用な無駄と考えられるわけですよ。

 また、無茶な進化は生態系をもいびつにしている、ということです。クローン技術が発達したり、遺伝子組み換えの食品が登場したりと、もはや触れてはいけない、いわば神の領域に踏み込んでいるのが気になります。

 これらの発展が主に人間の食料保存や、医療技術の向上を目的にしているならば、ある意味では危険極まりないと思います。地球上の生態系というのは、絶妙なバランスの上に成り立っていることは、誰もがご存知でしょう。食物連鎖にしてもそうです。一見原始的にみえるこのシステムも、種の保存をバランスよく保つための、緻密なプログラムなわけです。

 その緻密なシステムを、人類に都合のよいように特化させていくというのは、生態系のバランスを崩すだけであって、それは種の滅亡につながる危険性もはらんでいるわけです。人類は「人間」というカテゴリーだけを安全なものにしようとやっきになっていることが、実はそのカテゴリーを不安定なものにし、下手するとすべてが崩壊する方向に進ませていることに気づいているくせに止めようとしないんですよ。

 あえて暴論を吐きます。人は必ず死ぬんです。その死に方が寿命をまっとうするのか、病気で死ぬのか、災害で死ぬのか、戦争で死ぬのかはわかりません。冷たい言い方ですが、それが自然の摂理なんです。種の保存のためには必要なことなんですよ。

 よって過度の医療技術の進化は、そのバランスを崩す結果になりかねません。現在地球の人口が60億人です。私が中学の社会で習ったときは、40億だったんですよ⁉ ほんの十何年で、20億も増えてるんです。これは明らかに自然の摂理に反していますよ。

 ただ病気のお子さんや、ご家族がいらっしゃる方々にとっては、なんとしてでも助けてあげたいという切実な想いがある。それも重々わかるんです。当たり前です。わかるだけに暴論だといったんです。

 局地的見地でみると、とにかくどんな手を使ってでも助けてあげたい。医療の進化もその局地的・人道的な観点から発達するのでしょう。しかし大局的にみると、それによる人口増加というのは、種の保存という観点においては深刻な問題でもあるわけです。このジレンマにだせる解答が、今の私にはありません。

 と、話がだいぶ大きな方向に飛んでしまいましたが、まあこれ以上の進化はいつか破綻をきたすのでは、ということです。進化のアクセルを緩める時期に来ているんじゃないかなあと思うんです。つまりもっとゆとりを持った、農本主義のスローライフに戻ってもいいのではないでしょうか。だから私の夢は晴耕雨読の隠居生活なんですけど(笑)。

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